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前田慶次の少年期

前田慶次の生い立ちについては様々な説がありますが1533年説・1541年説が主流と言われています。生まれは、愛知県の旧海東郡荒子という寒村で生れたと言われていますが、定かではありません。
父は織田信長の部将滝川一益のいとこ益氏であるといわれています。慶次はその庶子でした。庶子と言うのは側室の子と言う意味です。たまたま母が前田利家の兄、利久と結婚したので養子となり、前田姓を名乗り慶次郎利益になったと言われています。
1567年に信長の命令により、養子の前田慶次が荒子城を継ぐよりも実弟の前田利家が継ぐべきであるという名目によって養父利久は隠居させられ、叔父の利家が荒子城を継ぎました。
このため前田慶次は、はじめのうちは、養父に従って荒子を離れました。後に累進して能登国一国を得た養父利家を頼り、義理の叔父にあたる利家に仕えました。

前田慶次の青年期

織田信長の死後、前田慶次は羽柴方に付き1584年の小牧・長久手の役では佐々成政に攻められた末森城の救援に向かい、前田慶次は敵方から寝返った阿尾城の城代に任じられ、その後は神保氏の軍勢と戦い軍功をあげたようです。
その後、前田慶次は養父利久の死後、1590年頃、利家と喧嘩して前田家を出ることになります。このときの前田慶次の有名な逸話が、利家をだまして水風呂に入れ、松風を奪って出奔したという話になっています。
後に前田慶次は上杉家の知遇を得て、上杉家に仕官し1000石を受けたようです。上杉家が越後から会津120万石に移封された1598年から関ヶ原の役が起こった1600年頃の話です。
関ヶ原の役に際しては、上杉家が東軍についた最上義光と戦った戦いに前田慶次は出陣して手柄を立てました。

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前田慶次のその後。

関が原の戦いで西軍が敗退したりことにより、上杉氏が30万石に減封され米沢に移されると、前田慶次は、これに従って米沢藩に仕え、米沢近郊の堂森と言う所に隠棲しました。
前田慶次は、隠棲後は直江兼続とともに、和歌や連歌を詠むなど自適の生活を送ったと伝わっています。1612年に堂万世町堂森で没したとされていますが、色々な説が有り、前田利長の命によって大和国刈布に隠棲し1605年に前田慶次はその地で死んだと言う説もあります。
後世において、前田慶次については色々な文献が出て、江戸時代には「前田慶次道中日記」という書が出ていますし、また、甲子夜話にも一部エピソードが記載されています。
又最近の小説などにより、人々に豪腕な武人・超一級の戦人のように印象づけられました。前田慶次イメージは、コミックの 花の慶次 のイメージが強くでています。
カブキ者という言葉は、「形にはまらない」且つ「風流人」で、さらに「強い」という者の代名詞の様になっていますが、、実際は「負けず嫌いのひねくれ者」と言った方がいいかもしれません。
前田慶次の文献などでは、戦も出来ぬほど大きく重い刀を持ち歩いたり、屋根より高い指物や母衣を担いだりと、とにかくあんな人いたら男も女も惚れちゃいます。

Copyright © 2007 前田慶次の魅力